しんしんの雑記帳

みんなのハートをキャッチだよ!

件の車椅子利用者の飛行機搭乗の話に寄せて

奄美空港で格安航空会社(LCC)バニラ・エアの便を利用した半身不随で車いすを利用していた方(バリアフリー研究所代表、木島英登さん)が階段式のタラップを腕の力で自力で上がったこと。

車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170628-00000010-asahi-soci @YahooNewsTopics

 

 

この件に関してあまりに的外れで、差別的な発言が多く感じます。ネット上で。

 

・事前の連絡をすれば対応は可能だった

・制止を振り切って木島さんがタラップを上がった

・木島さんは以前にもこうした行為をしていた

 

この三つを以て木島さんを、政治的なパフォーマンスを行なうクレーマーだと決めつけ非難する意見が少なからずあります。 

 

確かに政治的なパフォーマンスであるというのはそうだろうし、そのために故意に制止を振り切ったのでしょう。

 

考えるべきことはなぜそうする必要があるかということです。

 

木島さんが事前の連絡すればよかったのだから、その連絡を(故意に)怠った木島さんが悪いという意見もあるでしょう。

格安航空なのだから我慢しろとか、一般の健常者も利用するのだから、障害者だけに特別な配慮をするのはおかしいとか。

 

僕はそうした意見に異議を申し立てたいです。無自覚の差別意識は無くさねばなりません。

 

公共交通機関であるバスは、白人専用なのだから、黒人が乗る時は後ろから詰めなければならないし、白人が多い時は黒人は降りなければならないというルールがあったらどうですか?

これは明白な人種差別ですよね。

 

今回はそれと同様の構造だということを指摘したいです。

何故後ろに詰めなければならないのでしょう?何故事前予約を迫られるのでしょう?

事前予約の段階でスクリーニングする可能性も大いにあるわけですよね。

 

今回の騒動が政治的なパフォーマンスだというのはそうでしょう。

だからと言って、木島さんが、延いては車椅子利用者の方が、健常者に配慮しなければならないというのは、ちゃんちゃらおかしいでしょう。

 

事前予約した方が合理的との指摘もありますが、誰にとって何が「合理的」だと言うのでしょうか。

合理性というゲームに乗せてもいい問題なのか。

 

あと、空港側の設備が不十分なのは問題外の外ですね。

エロマンガ先生面白い!サイコー!

久しぶりにニチアサ以外のアニメを観た!!!!!!

面白い!!!!!!(ボキャ貧)

 

 

Amazon primeで一気に観ちゃった…

12話はニコニコで観た

 

主題歌好き!!!!!!OP好き!!!!!!「ヒトリゴト/ClariS

速攻でiTunesで買った……

ずっと聴いている…………

良さみ……………

 

 

尊い……

日常系というか、ラブコメというか、こういう誰も死なない幸せな話が好きなんで。はい。両親死んでるけど

終わっちゃった……

紗霧さん...嗚呼紗霧さん、紗霧さん...(心の一句)

 

関係ないですけど、アニポケも観たら絶対沼にはまるから観ないようにしているんですよね。結局XYZ観てサトセレがもう(言葉を失う)

 

 

尊さを胸にしまいきれない。

はあ…好き…

コモンズの中の「私的な」ブログ

ブログを書くとはどのような営みなのだろうか。

 

なぜ人はブログを書くのだろう。

ブログを始める動機の語りと、ブログを長期間続けている動機の語りは恐らく違うだろう。

自己表現、情報発信、日記、アフィ云々。色々あるだろうし、それらを分類もできるかもしれない。

 

僕が興味を持つのは自己表現のメディアとしてのブログ。全く見ず知らずか、あるいは知り合いか、どちらにせよ不特定多数の人々に向けて自らの生活に関わる私的な内容を綴る。なぜ?

 

「どうして人はブログを書くのか」

1人1台以上スマホを持つと言われる時代。ブログよりもTwitterの方が勢いがありそうだけど。

 

 

コモンズ

インターネットは公共空間なんて言われる。それは果たしてどういう意味で公共なのだろうか。

開かれていて誰にでもアクセスできるという意味で、だろうか。共有地(コモンズ)と表現されることもあるらしい。こちらの方が幾分分かりやすいか。

誰にでも開かれているのは確かにそうだ。

しかし、ブログを書くことは私的な営みだ、と言いたい。少なくとも本人にとっては。

 

 

私的な内容を綴るブログであっても、一般人のブログでも、突然バズって一気に読者が増えることもあるとか、ネットは誰にでも閲覧可能なのだから誰が見ているか分からないとかそういうことを言いたいわけではなくて。ネットリテラシーに還元したくはなくて。

 

「誰か見ているのだろうけど、私が書くこの記事は私的である」みたいな感覚があるような気がする。

 

 

今後の展開

私的な内容をブログを書くということ。

この現象をそっくりそのまま捉えたい。まずは動機の語彙に着目して調べてみよう。

 

 

データだったら、それこそ豊富だ。なぜなら、ここは多様なブログが入り混じる雑多なコモンズなのだから。

 

 

 

小田原へ小旅行の巻

先日所用で小田原へ行きました。

 

小田原市役所の前に噴水広場があって、結構涼しいなと思いました。市役所の中にはジャンボ木鉢なるものが置いてありました。

f:id:sample_bang:20170618005206j:image

 

 

小田原といえば小田原城、というのは安直すぎたかもしれませんが行きました。天守閣に入るには500円かかるらしいので辞めておきました。(大して景色も綺麗じゃないと思うし)

f:id:sample_bang:20170618005102j:image

 

広場では、花菖蒲と紫陽花が綺麗に咲いておりました。 

f:id:sample_bang:20170618005120j:image

 実は僕、お花の中で菖蒲が一番好きなんです。一時期狂ったように菖蒲の絵を描いていた時期もありました。

f:id:sample_bang:20170618005127j:image

紫陽花。

 

次に海岸へ行きました。

f:id:sample_bang:20170618005132j:image 

人はまばらで、一人の時間を過ごせました。波音が気持ちよかったです。

 

あまり時間がなかったので、食事をとることはできませんでした(名産もよく分からなかったし)。

 

次行くことがあれば、ゆっくり食事もしたいと思ったしんしんでした。

【備忘録】視覚によらずに空間を編成するということ-Måseide, P. & Grøttland, H. (2015)

面白い論文を読みました。まだ充分理解できてないですが、メモを。

 

Måseide, P. & Grøttland, H. (2015). Enacting Blind Spaces and Spatialities: A Sociological Study of Blindness Related to Space, Environment and Interaction.Symbolic Interaction, 38, 4, 594-610.

 

続きを読む

世界という概念

僕が勉強している分野、主に社会学や人類学において、「世界」という言葉がよく使われます。

「社会的世界」とか、あるいは単に「世界」とか。

 

でも、最近具体的に世界が何を指すのかよく分からなくなってきました。

自分のパースペクティブを通して見える物理的環境の総体、と一応僕は考えていますが、この定義だと、見たことがなくても存在するもの(行ったことがない土地や会ったことがない人々)は存在しないことになりますよね。それだと違和感が残る。

 

Bruno Latourは"War of the Worlds"(世界と世界の戦争)という本を書いています。

僕はまだ読んでいないのですが、Latourが世界をどう扱っているかに留意して読もうと思います。

複数の世界という概念はキーになりそうです。

 

音楽の分野でワールドミュージックという言葉があります。

文字通り、この地球上の全ての音楽を指しているわけですが、これは西洋古典音楽(いわゆるクラシック)を正当とみなしがちなことへの反省から生まれた言葉です。

しかし、結局これは、地球上のあらゆる音声的な営みを、"music"という概念に無理に収斂させているだけなんじゃないかと僕は思います。

 

日本の音楽も、英語の"music"も、ヨーロッパやアジアや南米やアフリカでも、人間が何らかの自らの身体や道具を用いて、音声を発生させているという事実に変わりはなくても、それをミュージックと言ってしまっていいのか、という疑問です。

 

これからも色々考えます。差し当たり、考えていることを羅列してみました。