しんしんの雑記帳

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【人間性って何】海野十三『十八時の音楽浴』を読んで

『十八時の音楽浴』っていうSF小説を知ってますか?

僕がこの小説を知ったのは、一昨年レポートの参考文献を探しているときに偶然ヒットしたのがきっかけでした。

ちなみに青空文庫で読めます(図書カード:十八時の音楽浴)。

 

今日はこの小説を読んだ感想を書いてみます。

以下思いっきりネタバレを含むので、まずは実際にこの小説を読んでみてください。短編なのですぐに読み終わると思います。てかこの記事はどうでもいいから『十八時の音楽浴』を読んでください(真顔)

 

あらすじ

度重なる戦争によって地表で住めなくなり、地下で暮らすようになった人類。独裁国家のミルキ国は、人を洗脳する音楽浴によって政治を行っていた。音楽浴を発明したのは科学者のコハク。ある日女大臣のアサリのクーデターでコハクとミルキ夫人が処刑されてしまう。コハクの作った人造人間に心を奪われるミルキ閣下。政治の力を過信するアサリ。折しも豊富な金資源を奪いに火星人が襲来。防衛のために音楽浴は際限なく放送されるが国民は衰弱し、息絶える。遂にはアサリもミルキも死ぬ。すると、死んだはずのコハクが数百体の人造人間を従えて現れ、火星人の襲来を防ぐ。新しい音楽浴とともに新世界建設が開始される。

 

感想

まず、気になったキーワードや人物などを取り上げてみます。

  1. 国民の思想を統制し、短時間だけ超人的能力を与える音楽浴
  2. 自分自身を解剖して、男性から女性になる靴工のポール
  3. 人間を彫刻するように楽に外科手術できる超短波手術法や永遠の若さと永遠の命を可能にするレベルまで進歩した医学
  4. 音楽浴を生み出した科学者コハクによって作られた、美人の人造人間アネット
  5. 政治が科学を征服するべきと考える女大臣アサリ
  6. アネットに気持ちを寄せる女学員バラ
  7. 火星人の襲来
  8. 音楽浴によって鼓舞し続けられ疲弊し死に至る国民たち
  9. 人間に取って代わり火星人を迎撃する数百体の人造人間と新しい音楽浴

 

今取り上げた9個のトピックは、程度の差はあれ、物語中であまり語りつくされることはありません。ポールの話とかバラの話はそれ自体もっと掘り下げられそうですが、回収されない伏線というか、ただ登場しただけ感は否めないかなって印象です。

でも、約80年前の短編小説とは思えないくらいのネタの量ですよね。こんな盛りだくさんで物語はどんどんとダイナミックに展開していくのが心地いい。理解、というか疑問を浮かばせる隙を与えない、情報過多ってやつですね。映画好きの友達が、最近のリピーター続出の映画は、情報過多に作られているから何度も見て楽しめる仕組みになっているみたいなことを言っていたのを思い出します。それと仕組みは同じなのかな。

 

 

人間性って何

さて、ここからはこの記事のメインに移ります。

この小説を貫くテーマは「人間性」だと、個人的には思います。音楽浴によって奪われていくミルキ国の人々の「人間性」と、コハクのための新しい音楽浴によって賛美される「人間性」の二つ。

この二つの人間性はどう違うのか。これが今日のテーマです。

 

「人間性」という単語が使われているのは6回で、場面は2つ。

 

1.コハクに対するミルキ夫人の言葉

(音楽浴がもたらす罪悪の理由について)それは人間性への反逆だからです。第39番の国楽は、支配者の勝手きままな統制条件だけでできています。それは人間をあやつるのに最も都合のいいように、あらためることにあって、そういうあらため方を生きた人間に加えてはたして無理がないであろうかという考慮が払われていません。事実、あの音楽浴のお蔭で国民は体躯においても活動力においても品行においても、みちがえるように立派になりました。だが一方において人間性を没却したことは、国民の身体の中にある毒素の欝積をもたらしています。それは日夜積み重なって、今にきっと爆発点に達するでしょう。わたしは国民の一部が、すでにこの毒素の欝積に気づいているものと見ています。(括弧内引用者による)(第4章)

 

2.人造人間だけになったミルキ国に響く音楽浴を聴くコハクの場面

博士は静かに肯いた。新しい人間性の讃美の音楽浴! 累々たるミルキ国の屍人たちはその新しい音楽浴を聞いて甦るのであろうか。しかし冷たくなった死屍は、墓石のように動かなかった。

 (中略)そして博士は、心静かに、遠くから響いてくる人間性讃美の音楽浴のメロディーに聞きほれている。
 人間性讃美の曲。それは冷たき亡骸になったミルキ国人のために奏せられるのであろうか。それとも博士によって創造された美しき人造人間に人間の魂を移し植えるために奏せられるのであろうか。いやそれは只一人の生残り人間なる専制コハクのために奏せられる挽歌であった。卓越せる頭脳の持主である博士にとっては、累々たるミルキ国の死者を更生させることは大して困難なことではなかった。しかし博士は全然そういう意志を持っていなかった。科学者とは畢竟そういう冷たい者であった。
 しかし博士コハクは、ここに彼が日頃理想としたユートピアを堅き信念と大なる自信をもって建設しようとこれつとめているのだった。博士がさきに、女大臣の悪計を悟って、自分そっくりの人造人間をミルキ夫人の部屋に送って爆死させたのも、一つは今日を迎えるため、また二つには爆死したのが人造人間だったという証跡を残さないがためだった。
 新興コハクの人造人間国は新しき人間性讃美の音楽浴に包まれながら、今や新しき世界の建設にスタートを切った。(第11章)

 

第一の「人間性」

 前者の場面での「人間性」っていうのは音楽浴によって没却させられているもの。つまり、押し付けられた国家精神ではなく自由な思想、禁欲ではなく自由な欲望、画一ではなく個性を尊重する精神だと考えられます。

ミルキ国の人々の人間性を失わせる音楽浴はポールに「人喰い音楽」と揶揄されています(第3章)。

端的に言うと、この場合人間性っていうのは多様性の中で個性を重んじるってことなんですかね。

 

思うに、画一化で失うものと、それでも失わないものがあって、その残されたわずかな人間性がシグナルを発している。その「それでも失われないもの」が人間性の本質なのではないでしょうか。

だから国民たちの間で言い知れぬ不満が溜まっていく。それはバラの言葉にも表れています。

とにかくわたしはちかごろいらいらしてならないの。どこがどうとハッキリわかっているわけではないけれど、近頃の生活は何だか身体のなかに、割り切れない残りかすが日一日と溜まってくるようで仕方がないわ。いまに精神的の尿毒症が発生するような気がしてならないのよ。(第6章)

精神的の尿毒症っていう表現がいい得て妙ですよね。自分の生活を見透かされているような気持ちになります。僕って人間性をもって生活できているのかしら。

 

 

 同じく6章では、自分自身の性を男性から女性に変えたポールのことを知ったバラが、ポールの行為を称賛しています。

(前略)彼は性欲をさらにスポーツ化し、人間を新しき自由の世界に解放するために、性の束縛から逃れることを考えついたんだ。もうわたしは、必ずしも永遠の女性でなくてよくなったんだ。男性にもなれるんだ。ペン、わたしがもしも女性から男性に変ったとしたら、貴方はやっぱりわたしに対して、今までのように憧れるかしら。(第6章)

 音楽浴によってほとんど全てを束縛された国民たちに残されたわずかな自由、性の自由をポールは最大限に活用しようとして、自分の体を改造し、女性になることを選んだのかもしれません。

自分の性別を自由に選択できる。身体を自由に整形する医療技術がある。永遠の命が与えられているので、女性は出産する必要もない。その段階まで達した社会ではジェンダーフリーは達成されているのでしょうか。というか、もはやジェンダーって概念すら無意味になっていそうですね。うーん、でもそんなことないのかな。

 

性別役割分業はどうか。物語の中に、政府から命令があるときのみ女性は妊娠し子供を産むという記述があります(事故や犯罪によって減った人口を補充する目的?)。その場合に女性は妊娠出産をするという役割がある。また、音楽浴によって国民は遍く強靭な身体を得ているので、男女の体格差による分業も縮減している(男女の体格差が出にくい)のではないかと推測できます。したがって、性別分業自体はあっても、現代のような性別分業に伴う規範意識(男は外、女は内のような)は薄れている(なくなっている)のではないかと思います。

 

自由に性別を変えることができるなら、今日は男、今日は女みたいに自由に自分を着せ替えられますね。

その場合ジェンダーアイデンティティ性自認って単語は何となく避けた)はどう構築されるのでしょう。男にも女にもなれる自分という存在。そのアイデンティティ

僕にはわかりません。語りえぬものについては沈黙しなければならないですね。

 

そしてこのニュース記事がタイムリーだったので載せておきます。このニュース自体興味深いですが、この記事では扱えません。

www.dailymail.co.uk

 

第二の「人間性」‐人間性賛美の音楽浴は「只一人の生残り人間なる専制コハクのために奏せられる挽歌」

 第二の人間性は、人間が死滅したあとのミルキ国の場面で登場します。上に引用したように、人間性賛美の新しい音楽浴はコハクのための挽歌だという記述がありました。これはどういう意味なのでしょうか。

 

ミルキ国に残された人間がコハクしかいない以上、新しい音楽浴はコハクのためのものでしょう。それに、コハク自身が建国にあたって新しい音楽浴を作った可能性が高い。だとすると、その賛美されている人間性というのは、上述したような個性を尊重する人間性ではなく、コハクの理想を反映した「人間性」なのではないでしょうか。「第二の人間性=コハク性」とまで表現できる。

 

最初の音楽浴によって死にゆくミルキ国人を見捨てること/と決別する自体が、第一の人間性をコハクが否定していると言えるのかもしれません。しかし、コハク自身の中にも第一の人間性が若干でもあるからこそ、新しい音楽浴は「挽歌」として彼の中に響いたのではないでしょうか。

 

コハクの理想。それは、新しい世界の建設。人造人間によって治められるユートピア。そこにいる人間はコハクただ一人。人間=コハク。だから、人間性=コハク性。

それを賛美する音楽浴。かなり強いナルシシズムですよね。

 

コハクは自分のやりたいように国を作り変える。自分の思想に従い、自分の欲望のままにふるまう。そして流れる新しい人間性賛美の音楽浴。

 

…あれれ~?

 

おわかりいただけただろうか?

コハクは結局第一の人間性から脱却できていないどころか、むしろその本質をしっかりと保持しているのです。個性の尊重。

 

結局どう違うのさ

じゃあ第一の人間性と第二の人間性とは何が違うんだよ!!一緒じゃないか!!!!!と思わないでください。決定的に違うところがあります。

再三書いているように、ミルキ国にはたくさんの人間がいるのに対して、コハクのユートピアには人間はコハクしかいません。これが決定的な違いをもたらすのです。

 

自由に考え、自由に欲望し、自由に行動する。これが人間性の本質であることは先ほど述べた通りです。

 

しかし、第一の人間性の場合はある制約があります。それは人間が社会を形成しているという点です。つまり、他人との利害関係が常に付きまとうということです。

個の利益になることと、集団の利益になることは必ずしも一致しません。個人にとってそれとどう折り合いをつけるかが問題になります。無制限に自由にふるまうのには無理があります。

経済学とか社会学社会心理学とかでよくある議論ですよね。ゲーム。

 

しかし、コハクのユートピアにおいては、人間社会というものが存在しません。言うなれば、万人の万人に対する闘争が起こらない状態なのです。

だから、自由に考え、欲望し、行動することが可能になる。制限があるとすれば、コハクの頭脳と資源。

 

まとめると、第一の人間性と第二の人間性は

・どちらも個性の尊重というルーツは根底にある。

・その人間性の発現が可能になる状況・程度が違う。

・想定される人間が違う。前者は人間一般。後者はコハク一人。

 

最後に

こんなに長文を書いて、こんな結論かよって感じですよね。すみません。

まあ、とにかくこの小説は僕の好きな小説のひとつなので、何か記事を書いてみようと思ったわけです。

久々に読み返すと理屈抜きでやっぱり面白い。破滅に向かうミルキ国の様子を読み進めるのが不気味であり、愉快です。SFってロマンがありますよね。

もっと別の切り口でも書きたいと思ったので、また書くかもしれません。

 

「十八時の音楽浴」

いかがでしたでしょうか。あなたの感想を聞かせてください。