しんしんの雑記帳

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「生と死」「社会と障害」-『ボディ・サイレント』を読んで思うこと

『ボディ・サイレント 病いと障害の人類学』(ロバート・F・マーティー著,辻信一訳,1987=1992,新宿書房)という本を先日読みました。神保町を歩いていてたまたま目に入ったので買って読んでみたという感じです。

この本を読んでいる時に色々頭に浮かんだこと、読み終わってから頭の中から離れないことを、読んで1か月以上経った今整理してみます(ブログを放置気味だったのでちょうどいい)。

『ボディ・サイレント』について 

この本は、マーフィー氏自身の1972年頃の軽い筋肉の痙攣から、この本が書かれた1986年頃の四肢麻痺に至る、病の過程をもとに記されたものです。彼によると、この本は「人類学者である私にとっては、長びいた人類学的”現地調査旅行”の一種に他ならない」(p.7)という。訳者も言う通り、この本の議論は多岐にわたっており、ある章は身体障害者による身体障害者のエスノグラフィーであったり、また別の章は身体論についての考察であったり、生と死についての哲学的省察であったりします。

ゴフマン、レヴィ=ストロースメルロ=ポンティ、メアリ・ダグラスなどの様々な社会学者・人類学者の議論を踏まえて展開される身体論、障害論はこの本が書かれて30年近く経った今でも鮮烈です。

 

生と死 社会と障害

軽く本書の紹介をしたところで、本題に移っていきたいと思います。本書に通底するテーマとして、「生と死」「社会と障害」という二つの組み合わせを挙げられます。

『ボディ・サイレント』は身体障害を念頭に書かれた本だけれども、僕はこの記事の中では発達障害知的障害も念頭に置いて「障害」に言及します。

 

まず、本書全体の問題提起が表れている以下の箇所を引用します。

 身障者についてのリサーチを進める中で起こったある出来事が、生と死に関するいくつかの基本的な問題を投げかけたことがある。それは私と妻のヨランダがある官庁のオフィスを訪ねていた時のことだ。私たちの知り合いで、それほど重くない脳性麻痺にかかった一人の若い役人が、車椅子に乗って入ってきた。その顔は涙で濡れていた。興奮がおさまると彼は説明した。同じ階で働く他の課のある男が連れに向かって、身障者である彼について、こんな風にいうのをきいたのだというのだ。「僕なら生きてないね。死んだ方がましだ」。この話をきいた私の心の内にいくつかの疑問が湧いた。その男はそれにしても、なぜ本人にきこえてしまうような声でそんなことをいったのか?身障者の若者はなぜそのことばに大きな衝撃を受けたのか?なぜこの私でさえこんないやな気分になるのか?そして、これは特にだいじなのだが、果たして本当に一個の人間が”死んだ方がまし”だということがありうるのか?この最後のはたしかに大きな問題だ。これに答えるには、では生というものは何によって成り立っているのか、という問いにも答えねばならないだろうから。 p.18

 「僕なら生きてないね。死んだ方がましだ」と言った男性がどんな意図でその発言をしたのかは分かりません。車椅子の彼を侮蔑するつもりだったのか、それとも単に自分自身が思ったことを口にしただけなのか。そもそもそういう思考自体検討されなければなりませんが。

 

これは優生思想なのでしょうか。仮に、「何らかの基準に照らして人間の優劣をつけて、優秀な者のみに存在価値を認める思想」を優生思想とすると、やっぱりこれは優生思想か。

命に優劣をつけることにどれほどの意味があるのか。優劣なんか付けなくても、みんな生きているというのは事実だし、それを否定する権利は誰にもないと思うのだけど。

思うに、生産性による優生思想は広く見られるものなんだ。「障害者は生産性が低い。だから、健常者が配慮してあげないといけない」という前提が暗黙のうちにあるんじゃないか。これが「障害者は生産性が低い。だから障害者は不要だ」となるとナチスの思想に至るのではないか。

多くの人は、表には出さなくても、ナチスと同じ思想とまでは行かなくても、暗黙のうちに障害者を下に見ているんじゃないか。

障害者には配慮してあげる必要があるみたいなその主張、一見優しいように見えて実はとても危いと思います。なぜなら、障害者を弱い者と位置づけて、保護してあげるという上から目線な主張だから。

 

ここでいったん社会モデルと合理的配慮について確認します。

障害の社会モデルというのは、心身の機能不全をインペアメント、社会の在り方によってインペアメントを持つ人が不利になっている状態をディスアビリティとして、障害の社会性を強調するモデルです。

合理的配慮は、障害者が抱えている何らかの困難を解消するのを、負担になりすぎない範囲で手助けするというものです。以下の記事に分かりやすくまとめられています。

合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

要するに、「特別扱い」するのではなく、障害者/健常者という枠組みを超えてそれぞれが生きやすいような社会を目指すのが理想です。少なくとも僕にとっては。

みんな生きづらさを抱えている。僕だって生きづらい部分がある。そして、その生きづらさは人によって程度の差がある。とても生きづらい人が少しでも楽になって、ちょっと生きづらい人がちょっと幸せになれるような社会になれ!キュアップ・ラパパ!

 

 

次に、本書の中で一番引っかかった箇所を引用します。

 病や損傷は身体的な問題であるばかりでなく、心理的、社会的な問題だとよくいわれる。このことが私の心に生き生きと蘇った。よい健康状態にある人間たちは、彼らの幸福を、そして彼らのからだを当たり前のことと思っている。彼らが見、聞き、セックスをし、息をしているのは、からだの諸器官が正常に働いてくれているおかげだということを忘れてしまう。これらの諸器官、そして肉体の全体が”我々が何者であるか”ということの意味を形づくる基礎になっているのだし、我々が現実を把握し、また創造するための道具となっている。 p.24

 健康に生きている限り、命の大切さとか、生きることについて思いを巡らすことはあまりないんじゃないでしょうか。

その「当たり前」が脅かされてはじめて大切さがわかる。

僕は、半年ほど前に膝を怪我してしまって、怪我と言っても一人で歩ける程度だったんでよかったんですけど、とても不便でした。走れないこと、足を容易に曲げられないことがこんなに不便だなんて、怪我をしないと気付かなかったかもしれない。

当たり前の現実を構成している/意味付けているのは自分だし、それは自分の身体に基づいている。「見、聞き、セックスをし、息をしている」という当たり前は、健康な身体があってこそはじめて可能になる。それが直接アイデンティティに結びついている。いや、アイデンティティを構成していると言うべきか。

 

マーフィーは、身体の麻痺が進むにつれて、「身体障害者である私」というアイデンティティを形成する。そして障害者をめぐるスティグマを認識していく。

病が進行しても、マーフィーは大学教授という仕事を続け、本を執筆し、自分自身を見つめることで「生と死」というテーマについて考えを深めていく。

 

 

本書の最後で、先ほど引用した箇所で提起された問題に対する回答がなされます。

死は果たして身体障害よりもましなものだろうか?否。答えは否である。さもなければ、我々があらゆる形の生―どのような制限を負わされていたにせよーに見出すことのできる唯一の意味を否定することになるだろう。死んだ方がましだという考え方は、身障者が生きることの価値とその権利を疑問視する最大の中傷だ。それでも我々身障者は生きるだろう。所詮すべての意味と価値は恣意的で、文化によって相対的なもの。例外として普遍的な価値をもつのはただひとつ、生、それ自体なのだから。生は、同時にそれ自身の手段であり目的だ。余程のことがない限りこのせっかくの贈り物を拒絶したり放棄したりすべきではない。生は状態というよりはむしろ過程であり、大団円のあるドラマである。静止と消滅は万物のたどる道にちがいない。しかし、よく生きられた人生なるものの核心は、否定性、活動停止そして死に対する挑戦である 。p.286

 「死んだ方がまし」という発言に対する反論がされています。すなわち、それは生きることの価値と権利に対する中傷だという指摘です。これには僕も同意します。

この箇所は生きることに対する強い意志が伝わってくるような文章です。

 

ただ、生きるということ、その価値について、僕は余計混乱しています。

僕には、生きる理由、生きなければいけない理由/死んではいけない理由が分からないのです。

別に死にたいわけでなく、なんで生きているのか、逆に死なずにいるのか分からないということです。

僕は日頃「生きたい」と願わずとも生きています。朝起きて、大学へ行って、バイトをして、本を読んで、ブログを書いて、SNSを見ています。多分これは健康な身体を持っているが故の「当たり前」の現実なのでしょう。

『ボディ・サイレント』を読み、「生と死」について思いを巡らせます。

今生きていて、とても楽しいのは間違いない。けれども、今死んでも後悔しない。

死ぬのは悪いことなのだろうか。自殺はどうしてダメなのか。死にたいなら死んでもいいんじゃないか。

ふっと死にたいと思うことは誰にでもあることだと思います。でも、多くの人は死なず、また毎日を繰り返す。

どうして死にたいと思うことがあっても死なないんだろう。それは生きることに価値を見出しているからとも言い切れないような気もする。無意識に生に執着しているんだよと言われればそれまでだが。

健やかに生きているから、生きることの大切さが分かっていないとも考えられる。けれども、僕だって生きることの大切さが分かっていないわけじゃないと思う。

僕は恋人と過ごしていて幸せを感じるし、友人と遊んでいて楽しいし、勉強をしていて充実感を抱くし、それらの時間をかけがえのないものと感じる。その時僕は、この時間がずっと続けばいいのにと思う。これは生きる大切さだと思う。なぜなら、死んだらその時間を経験できないから。

ここまで考えて、生きる理由というか、生きたいという願望はあるなと思いつつ。じゃあ死んではいけない理由はなんだろうと思うわけですよ。

 

周りが悲しむからとか、迷惑がかかるからとか、それって死んではいけない理由としては取るに足らないんじゃないだろうか。

 

生きる理由/生きたいという願望があるから生きているのだと言うなら、それがない人間はみんな死んでいるのか? それは違う気がする。

 

生きづらさや何らかの苦しみを抱えて自殺してしまう人は、自殺しなければもしかしたらその後それらの負担から解放されて幸せになれるかもしれないけれども、それよりも、今現在自分に重くのしかかっているそれらの負担から解放されるために自殺を選ぶんだと思う。

 

こうして長々と生死について考える余裕があること自体僕が生というぬるま湯にどっぷりつかっていることの証拠なのかもしれない。

 

死ぬ権利とか、安楽死の問題にこの記事で突っ込む余裕がないのでここらへんで終わりにします。

とりあえずまとめ

『ボディ・サイレント』は様々な示唆を与えてくれた本です。

生死についてはごちゃごちゃした意見にもなっていないような思考の断片を書きなぐるだけで終わってしまいましたが、これからもずっと考えたいことです。また「社会と障害」という問題についてより多くの人の理解が深まればいいな~と思います。

深夜テンションで稚拙な文章を書くのやめような(自戒)

 

追記1:この記事では、『ボディ・サイレント』の冒頭と結末の部分しか引用していません。それは、このブログを読んだあなた自身に本書を実際に読んでもらって、そのうえでエッセンスを感じ取ってほしいと思ったからです。図書館でも何でもいいので手に取って読んでみてください。きっと何か得られるはずです。

追記2:生死については次の記事で整理し直しているので、この記事と合わせてお読みいただけると幸いです。

 

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