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しんしんの雑記帳

みんなのハートをキャッチだよ!

生きること=死んでいないこと? 

読書 考えたこと

前回の記事の最後で書き散らかしたことを少しだけ整理します。

sample-bang.hatenablog.com

 

 

生きる理由について 

現時点での僕の考えは、「生きる理由とは何か?」っていうのは意味がない問いだということです。

 

「いつでも死ねるのに、そうせずに生きている」というのがポイントだと思います。

生死っていうのは、自由に選べません。

デザートにプリンを食べるかパフェを食べるかという選択の様に、生きるか死ぬかを選べないという事です。

 

電車に飛び込んだり、首を吊ったりすれば死ぬことはできるけれども、大部分のひとはそうせずにいます。つまり無意識のうちに生きることを選んでいる。生きることが選好されていると言えるのかな。

これはなんら論理的・倫理的基礎づけを必要としない根源的なものと考えられるのではないでしょうか。

 

ヒューマンであるということ

生死に対するこの見方は、「ヒューマンでない政策」というブログ記事*1を読んで得たものです。

この記事は、ある政策コンテストにおいて提出された「医療・介護難民増大が予想されるという問題状況に対して、解決策として高齢者を政策的にフィリピンに送り込む」という政策を、ヒューマン(おそらくhumane(人道的)の意)でない政策とした上で、なぜヒューマンでない政策が問題なのかを考察しています。

なぜヒューマンでない政策は実施困難になってしまうのでしょうか。これは、先述の殺人の問題で考えてみると問いの意味をよく理解することができるでしょう。というのも、ヒューマンでない政策の実施可能性問題は、倫理学的には殺人を悪と断ずる究極的な根拠がないにもかかわらず、平時の現実社会において殺人を犯す人がほとんどいないのはなぜか、という問いとパラレルだからです。この殺人に関する事実は、おそらくヒューマニズム倫理学的基礎づけを究極的には必要としない価値であるということを意味しているのだと思います。このため、ヒューマンでない政策を実施しようとすると、それは、それに関わる人びとの多くに葛藤や抵抗を生み出し、その傾向が、他の審査員が直感したように、行く先々で幾多の問題に直面するという形で、実施可能性を低下させるということになるのでしょう。

ヒューマニズムということを踏まえると、

死ぬこと・死に関する出来事が、僕たちの中に時に激しい感情を生み出すのは、僕たちの中にあるヒューマニズムによるのではないでしょうか。

これが、前の記事におけるマーフィー氏がいやな気分を感じた理由なんじゃないでしょうか。

ただ、僕はヒューマニズムという考え方が普遍的に存在するかは慎重に考慮する必要があると思います。

なぜなら、どんな思想も、歴史的・社会的文脈を離れて自律することはないからです。

ヒューマニズムというハビトゥス的な?

 

まとめ

いつでも死ねるのに生きていること、このことが示す意義は大きいと思います。

と同時に、猪飼氏の提起する「ヒューマン/ヒューマニズム」という考え方はより深く検討する必要があるなと思いました。

今後は死生学の文献や生命倫理の文献を読んでもっと考え方を精緻化していきたいです。