しんしんの雑記帳

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相互行為としてのぼっち飯

一人でご飯を食べることは「ぼっち飯」と呼ばれ、ネガティブな印象を持たれがちです。

この記事では、ぼっち飯を、無限の行為連関の一終局と位置づけて考えてみたいと思います。

 

 

行為連関

行為は、それ自体独立したものではありえません。それに先立ち、それを可能にする環境がなければ行為は実現されません。

例えば、「本を読む」という行為は、作家が原稿を書く、原稿を印刷する、店頭に本が並ぶ、本を購入するためのお金を手に入れる、本を購入する・・・という様々な行為によって生まれる、本をめぐる連関の中で/を通じて実行可能になっています。この連関はほとんど無限に考えることができます。上の例であれば、「作家が原稿を読むためのPCは○○社が開発し、そのPCを開発には△△が必要で・・・」のように。

さまざまな個々の行為連関が社会ないし世界を生み出しているのです。

 

行為連関の一終局

前節でみたように、行為の連関は無限です。ある連関(本をめぐる連関)をもとにおこなわれる特定の行為(たとえば「本を読む」)は、(あり得た選択肢のなかの)一終局として位置づけられます。ある行為連関は、そのどこかで終わる可能性(また、どこかで別の連関に回収される/と接合する可能性)を常にはらむということです。

作家が原稿を書いても、それが没になるかもしれません。また、ある小説が映画化されて国外にも放映するかもしれません。また、本を買っても私はそれを読まずに積読するかもしれないということです。

 

Interaction 相互行為

ここまでずっと「行為」という語を用いてきました。しかし意味合いとしては「相互行為」と言ったほうが正しいかもしれません。相互行為とは、複数の行為者間の相互的な働きかけやその過程のことです。

読書で言えば、作家がある小説を書いて、読者である私たちがその小説を本屋で買って読む。これも大きく場所・時間を超えた相互行為と考えられるのではないでしょうか*1

 

ぼっち飯

さて、ここからが本題です。ここまで読まれた方ならもう僕が何を言わんとしているか分かりますね。

ぼっち飯の場面を考えてみましょう。

昼休みになって生協に向かいます。授業が終わって人がどんどん入っていて、生協はにぎわっているように見えます。一席空いていたのでそこに荷物を置き、ご飯を買いに向かいます。今日は、白米、サバの味噌煮、味噌汁を買いました。400円弱です。席に戻り、一人でご飯を食べながら、次の授業のことをぼんやり考えます。・・・

 

「食」をめぐる行為連関を考えてみましょう。

上記の昼ご飯を食べることは、田植え、田んぼの管理、稲刈り、鯖の養殖、輸送、調理・・・といったさまざまな連関のもとに可能になっています。こうした一つ一つが「食」の一局面なのであり、それはぼっち飯という行為において終局を迎えます。

ぼっち飯は、それを作り上げてきた様々なアクターとの相互行為なのです。

 

まとめ

ぼっち飯を、無限の行為連関の一終局と位置づけて考察しました。その結果わかったのは、たとえ一人でご飯を食べていても、それは不可避的に社会的な営みだということです。

これは重要な示唆に富んでいます。

第一に、ぼっち飯は相互行為が社会の実質であることの一例であるということ。

第二に、行為連関まで考えを巡らせることで、物事をよく見るための違った視点を得ることができるということ。

 

堅い記事が続いていたので、軽いネタで書いてみましたがいかがでしたか?

 

 

参考文献

伊藤勇、徳川直人編,2002,『相互行為の社会心理学 ニューセンチュリー社会心理学5』北樹出版

 

*1:相互行為の要件に場所・時間をどう組み込むか、ということ自体考える必要があると思うので、これに関してはまた別の機会に考えたいと思います。