考えがまとまらないので、少しメモを残します。
障害について(の様々な意見について)日頃違和感を抱いていることを書きます。
1.健常志向と障害者嫌悪の違い
「健常」*1な身体を持ちたいという願望、志向は誰にでもあると思います。障害があるのとないのとでは、ないほうがいいと考えるのは自然なことなんじゃないでしょうか。これをここでは「健常志向」と表します。
骨折して車いす生活を送るよりは、自分の足で歩きたい。そういうのも健常志向と言えるでしょう。
それで、僕が気になるのは「障害者嫌悪」についてです。
まず、はっきりさせたいのは健常志向と「障害者嫌悪」は違うということです。当たり前ですが、これは大事な区別です。
骨折という怪我を嫌うのと、骨折した人を嫌うのでは、意味が違います。しかし、障害と障害者においてはこの区別は付けられていないように感じます。
差別っていうのは、「嫌悪」から生じるんじゃないかなと。
2.出生前診断
近年、出生前診断に新しい方法が導入されました*2。これまでの羊水穿刺という方法よりもリスクが低くて精度が高いと言われています。
ただ、この方法をめぐって様々な意見があります。ダウン症だとわかったら中絶するのは、ダウン症者に対する差別を助長するんじゃないかという意見もあれば、子どもが障害を持っているとわかったら中絶するのは無理もないという意見もあります。
僕は差別を助長するとは思わないです。我が子が健康に生まれてきて欲しいという母親の健常志向による人工妊娠中絶は差別ではないと思うからです。実際がどうかは知らないですが。
また、実際に中絶は多いようです。
中絶がいいのか悪いのか僕には分からないです。
ただ、もっと慎重になってもいいんじゃないかなと思います。
少し前にこんなニュースが流れました。ダウン症当事者への大規模な調査は日本では初めてのことです。
僕の周りには、こんな調査意味ない、障害者の周りの人間がどう思うかが大事なんじゃないのという声も聞かれましたし、僕も調査のやり方に若干の疑問は抱きましたが、このような調査がされたことはやはり意義があると思います。
それは医療カウンセリングの面で、です。
医師には医学的な知識はあっても、ダウン症者の具体的な生活に関する知識がないため、診断時に適切なカウンセリングができないという戸惑いがあると言います。
“本当の意味でのカウンセリングになっていない。
医学的な知識を妊婦や夫婦に伝えるのが精いっぱいで、なぜ自分はダウン症の子どもを産むことを選ぶのか、あるいは選ばないのかというところまでは、話が及ばない。”
出生前診断で、胎児に障害が見つかったときに、適切なカウンセリングを受けた上で中絶を受けるのと、適切なカウンセリングを受けないまま中絶を選ぶのとでは、結果は同じでも、中身は全く違います。
もちろん、経済的な理由などの様々な理由から中絶という選択はされます。
しかし、障害を持っているから中絶が選ばれる、というのに僕は強烈な違和感を抱いています。
合理的配慮が高らかに宣言される一方で、依然として障害児を持ちづらい(と思われている)社会では、中絶率が高いのは仕方ないのかもしれないです。
しかし、診断によって障害を持っているのが分かったら、深く深く生まれてくる我が子の未来を考える方がいいと思うんです。その環境づくりの一環として、ダウン症当事者調査があったんじゃないかなと思います。もちろん、それで終わりではだめで、合理的配慮が進み、障害に対する理解、障害者に対する理解が社会全体で深まってほしいです。
3.説明の語彙としての「障害」というカテゴリー
先日こんな事件があったのは記憶に新しいと思います。
後ろから急に突き落とされたら、たとえ命が助かったとしても、電車に乗るのがトラウマになりそうだなと思いながらこのニュースを見ていたんですが、一点どうしても気になることがありました。
それはテレビのニュース番組でこのニュースが取り上げられていて、「容疑者の男は軽度の知的障害を持っているとの情報もあります。」という言葉でこのニュースが締められたことです。どのニュース番組か記憶にありませんが、この言葉だけははっきり覚えています。
僕たちは、全ての知的障害者が、突然ホーム上で前にいる人を突き落とすなんて思いません。知的障害者の中にこういう事件を起こした者がいるというのが正しい認識でしょう。
これは「涙は女の武器」という常套句と重なる部分があります。すべての女性が自分の涙を武器にしているわけではないし、男性の中にも涙を武器にしている人がいるかもしれないけれども、こういう者として女性は捉えられています。
これは個別具体的な「女性」ではなく、一般的なカテゴリーとしての「女性」を指しているのだと思います。
だから、上記のニュースでも、一般的なカテゴリーとしての「知的障害者」が語られたのだと思います。
しかし、なぜ知的障害と事件が結び付けられるのでしょうか。
ニュースである以上、視聴者に事件の情報や背景を理解させるために原稿が作られています。
つまり、「容疑者の男は軽度の知的障害を持っている」ということが語られるのは、「知的障害者だったらこんなことしてもおかしくない」という納得を引き起こすためだと推測しても不自然ではないでしょう(僕は納得しませんが)。
こうした文言がどうして説得力を持つのでしょう。全ての女性が涙を武器にしているわけではないのに「涙は女の武器」という言葉が説得力を持つのはなぜなのでしょうか。
もしかしたら、社会学の研究を調べれば何かしらの知見が得られそうですが、不勉強な僕は先行研究があるのかどうかわかりません。
僕の仮説はこうです。
「人びとのやりとりは「信頼」を前提に成り立っている。そのやりとりの秩序が壊された時(=やりとりの参加者が問題を起こした時)には、その前提が損なわれないような形でその状況を把握するための適切な意味付けがされる。またはするように求められる。」
「状況の理解(意味付け、この場合ニュースの原稿)には、その状況の参加者をあるカテゴリーのもとで記述することを伴う。また、カテゴリーにはそれに伴うと常識的に考えられる活動がある。」
信頼で成り立っているというのは、たとえば、物を買う時に、自分がお金を出せば、その商品は自分のものになるというような、相手とのやりとりにおける暗黙の了解が働いているということです。
もし、お金を払わずに商品を持ち出す者がいれば、その者は「貧乏で食べるものに困っていたのだ」とか「興味本位で万引きしたのだ」とかいう風に説明されるでしょう。この説明は「貨幣経済」という前提を崩さない形で適切に意味づけられています。「貨幣経済が崩壊したのだ」とは説明されないでしょう。
そして、その説明にはカテゴリーとそれ結びついた活動が用いられます。例えば、教師と授業とか。
説明内容の客観的な正しさよりかは、納得できるかどうかが説明の「適切さ」を決めると思います。「常識」に照らした理解可能性が鍵ということです。上の例で言えば、「貧乏」というのがどの程度の世帯収入で、商品を持ち出した男の全財産がどのくらいなのか明らかにされなくても、「貧乏」という一般的カテゴリーを用いることで、説明に適切さが付与されるということです。
では、線路突き落とし事件の説明をどう解釈すればよいでしょうか。
前提となっている信頼はいくらでも考えられますが、「他人に危害を加えてはならない」という道徳意識ないし法意識があったとしましょう。
その前提が、容疑者の男が女性を線路に突き落とすことによって崩されました。
この時、道徳意識という前提を残したまま、状況に対する適切な説明が求められます。それが、「容疑者の男は軽度の知的障害を持っていた」となります。
これが意味するのは、「知的障害者ならば法律を満足に理解できないのだ」という説明であったり、「知的障害者は本能のままに行動するから危険なのだ」という説明になるかもしれません。
この場合も、説明の客観的正しさよりも、「知的障害者」という一般的カテゴリーに照らして、常識的に理解可能であるということなのかなと思います。
まだ、僕は納得できていないんです。
そのカテゴリーに結びついた活動や常識がどう変わるかという疑問があります。
認知言語学のプロトタイプ意味論を勉強すれば、はたしてこの疑問が解けるのでしょうか。
今のままの「知的障害者」という常識が残ってしまうと、障害者嫌悪が広まってしまうのではないかなと思います。
あの人は「知的障害者」だから危険だとか、「知的障害者」だから近寄らないほうがいいとか。ここまで至ってしまうと差別だなと思います。もっと進むと、障害者は不要だという過激な差別思想に繋がっていくんだと。
結び
障害者と日頃から交流があるから、障害というものが身近に感じられるし、つい障害について考えてしまいます。
僕はもっと障害についての理解が深まって、障害者も生きやすい社会になってほしいです。
追記:最後のニュースの話は、心理学でいうところの「ステレオタイプ」の概念と重なるんじゃないかという意見を頂きました。もちろん、ステレオタイプという概念でも僕が言いたいことを表現出来ると思います。ただ、ステレオタイプという単語を使ったとしても、僕が気になるのは、そのステレオタイプ(本文中で言えば一般的カテゴリーの常識)がどうすれば社会の中で変わるか、という点です。