しんしんの雑記帳

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まごころ哲学-エゴと仏心の交差点-

里見弴『多情仏心』の読前感です。

 

読前感です。読んでません(笑)

読む前に色々調べてたらそっちのほうが楽しくなってしまいました。今回参考にしたのはこの書評です→『「多情仏心」を評す』(水上滝太郎

http://books.salterrae.net/amizako/html2/minakamitajyoubusshin.txt

里見弴という明治生まれの小説家がいます。「まごころ哲学」を主題とした小説家です。

 

 

まごころ哲学とは何か 

「まごころ」とは何か。それを里見は以下のように表しています。

 

それは真実でなければならない、また一念一向でなければならない。

 己に忠実に、実感をもって認識を深め、そして偽るところなく赤裸に行え!(一部仮名遣いを改めています)*1

 

なんとも明快です。自分に嘘をついてはいけない。己(の念じるところ)に忠実に、というのがポイントです。

必ずしも利他ではないまごころ。他人を害することがあったとしても、己に忠実に赤裸に行動せよ。清々しいくらいに、自己中心主義が通底する思想です。 

実感をもって認識を深めること。それは、自分がおこなっていることを常に反省し、自分の行いに確信を持つことを意味していると僕は解釈しました。

つまり、里見弴の説くまごころ哲学とは、自分が心に思ったことを真剣に追求することが善しとされる考え方ということです。

僕にとってはすごく馴染みがいいというか、共感できる部分が多いです。

( 1/7追記)

まごころは漢字で書くと、真心。

しかし、心と言いつつ、まごころ哲学は実践に重きを置いています。心に念じたことを、実際に"する"ということに焦点が当たっているのです。

 (追記終わり)

 

 

エゴと仏心の交差点

このまごころ哲学が遺憾なく炸裂するのが『多情仏心』らしいです(読前並感)。この作品では、主人公の恋愛における「まごころ」が描かれているそうです。

多情、すなわち色々なものに感じやすく移り気であり、尚且つ仏心、すなわち仏のような慈愛の心を持っているということです。

 

 

例えば、好きな人ができてその人を手に入れたいと念じたとき、気持ちはすべてその人に向かうわけです。一念一向です。

このとき、自分の好きという気持ちを最大限大事にする=「まごころ」を持つ、ということです。

その相手を手に入れる為に、いろんな手段を講じて、相手に自分を惚れさせる。手に入れられれば善し、ということになります。本気で惚れ、本気で惚れさせる、それがまごころです。その相手に既に恋人がいても奪うくらいの気概でしょう。

 

しかし、多情仏心の主人公は、一人ではなく、様々な女性と関係を持ちます。

その一人ひとりに本気で惚れ、その一人ひとりを惚れさせる。完全に女たらしとしか思えません。しかし、その女性たち皆に「まごころ」をもって接しているからいいんだ!というのがまごころ哲学です。もはや開き直りにも近いような気がしなくもないですよね。

 

でも。理屈は分かります。

情は移ろいやすくても、その多情は全て本気の愛情に貫かれている。だから決して悪いことなんかじゃない。こういう趣旨になると思います。

 

恋愛において、その原理上エゴに導かれているまごころが発現するということは、その相手に最大限の愛情を注ぐということです。これはつまり、仏心=愛する心を持つことを意味するのではないでしょうか。

 

この点で、エゴと仏心は重なります。

エゴと仏心という一見相反するような性質は「まごころ」のもとに合一するのです。

女たらしは女たらしでも、まごころに貫かれた女たらしです。

 

 

最後に、僕の話

そもそもなぜ僕が『多情仏心』に興味を持ったのか。

それは数年前、自分が抱いていた疑問に起因します。

その頃僕は、好きな人が複数いて何が悪いんだろうと素朴な疑問を抱いていました。付き合ってなかったら、一人ひとり好きでも別にいいんじゃないのと単純に考えていて。

それからしばらく経って、ネットで色々調べていると、「多情仏心」という四字熟語を知り、どうやらそれは小説のタイトルなのだと知りました。それでまごころ哲学というものを知ったのです。

 

まごころ哲学は実践しようとしてもなかなかできません。少なくとも僕は、好きな人が複数いたら、どちらかに偏ってしまって、もう片方に申し訳なさが募って好きでいられなくなりそうだなと思います。

僕がポリアモリーに興味があるのも以上のような背景があるからです。

 

それでは、これから『多情仏心』を読んでいきたいと思います(笑)

読み終わったら記事を書くかもしれません。

*1:里見弴『白酔亭漫記』