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しんしんの雑記帳

みんなのハートをキャッチだよ!

【備忘録】視覚によらずに空間を編成するということ-Måseide, P. & Grøttland, H. (2015)

面白い論文を読みました。まだ充分理解できてないですが、メモを。

 

Måseide, P. & Grøttland, H. (2015). Enacting Blind Spaces and Spatialities: A Sociological Study of Blindness Related to Space, Environment and Interaction.Symbolic Interaction, 38, 4, 594-610.

 

 

視覚障害者の空間認知の実践を通じて、視覚中心主義を問い直すという論文です。

 

タイトルが示すように、空間、あるいは空間性(そこで人間の諸活動が営まれるパーソナルスペース)は、ただ単に"そこにある"のではなく"実行される"ものだと論じられています。

目が見えない代わりに、触覚や聴覚を用いて諸実践を組み立てるというように。

空間は視覚障害者と健常者双方に開かれている共在の場面であるという点で、単に物理的環境であるだけでなく、社会的環境でもあるわけです。

視覚障害者と健常者がその都度どのように振舞いを協調させるか、その際に視覚障害者がどのように空間を捉え、実践を組み立てているかというのがこの論文を貫くテーマです。

 

 

ゴフマンやエスノメソドロジーの知見に多くを負っている分析が多く見られます。

例えば白杖盲導犬を、participation unitにおける"with"と捉え、それが彼/女が"盲目であるblind body"というsymbolになっている。

何と"with"であるかによって、参与の仕方が変わるわけです。

白杖にはそれ自体agencyはないけれども、盲導犬にはそれがある。

盲導犬は、必ずしも決められたルートで歩くわけではないと書かれていました。そこで重要になるのは、人と犬の相互的な信頼だとされています。

人と犬の間には共有した基盤などないかもしれません。社会学でよく言われるIntersubjectivityなど想定できないということです。

けれども、人と犬が共在する場面において、そこで何事かが進行していることは間違いありません。

「共通基盤はないかもしれない(想定できない)けれども、そこで何事かが進行している」、これだけで別途論じる必要がありますね。別の論文を読みます。

 

 

ともかく、特定のシンボルによって、彼/女が空間に特定の仕方(白杖を使って道路を探りながら歩いたり、点字ブロックを優先的に歩行したり)でアクセスする権利を得ると同時に、目が見える周囲の通行人などには、彼/女に道を譲る/手助けする義務を追わせるという分析がありました。

明示はされていませんが、ここには成員カテゴリー化装置とカテゴリーに結び付いた活動というエスノメソドロジーの分析視角を見て取れました。

 

しかし、視覚障害者は、白杖盲導犬といったシンボルによって"障害者"であると自己呈示するけれども、そうではなく自分自身として"as the person I am"見られたいというジレンマを抱えていることも、インタビューで語られています。

異なる自己像(アイデンティティ)の間で、どう自己呈示をするかという点はこの論文では論じられていません。障害者であることと、それ以前に一人の個人であること。後者への志向と、それに基づくidentity workというのも面白いテーマです。

 

結論として、carnal sociologyの観点から障害の社会モデルに考察を加えています。

盲目blindnessをdisabilityとカテゴライズすることは、盲目である身体の個別性を無視しているという点で、社会学的な還元論であると同様に、盲目をimpairmentとカテゴライズすることは、視覚の欠如が空間において実践によって実行されることを見通している点で、生物学的な還元論だと指摘しています。

盲目は単に身体内的な状態であるだけではありません。それは、社会的・物理的環境の中で立ち現れ、観察可能になり、視覚障害者・健常者双方に有意味になるものである、というのが結論です。

その際に空間はただ"ある"のではなく、歩道を歩いたり、移動したり、バスに乗ったりするにあたって、身体的な技術(白杖で地面を探ったり、触ったり、音を聴いたりすること)によって把握され、それに基づきその空間が"作られる"、ということが示されています。

 

 

障害というテーマで研究したい僕にとっては最後の社会モデルの考察が重要で、障害はその都度enactされるものであるという発想もあるよなあといった感想です。

この点に関しては、アネマリー・モルの『多としての身体』も読んで、もっと考えを深めたいです。